一人ひとりのスイッチとは?・・・

安心感のある場・自然環境がそこにあるだけで、人はそれぞれのペースで自然と開かれてゆく。。。


こちらの思惑は、だんだん削ぎ落とされ、その場に立ち現れるものを、一緒に待つ。。。


湧き水のようにきっかけをつくり、人が、人や自然やモノ、自分たちが生み出したものとつながり、そこに立ち現れるものを、一緒に楽しむ。。。


すると、ふだんは蓋をしてしまっている源の感覚が、ひょっこり現れる。


ホント、何かのきっかけで、突然、ひょっこり。。。


先日開催したワークショップで、「自分のスイッチがどこにあるかがわかった」という声があった。


人の源のエネルギーが発動するスイッチは、本当に多用で、同じ人でも、その時々によって変わることもある。


 20代後半の体験だが、「眼の前の人を理解する」というテーマで聴き役をしている時、相手の言葉を、極めて正確にフィードバックし、自分では本当に熱心に相手の話しを聴いているつもりだった。


しかし、正確にフィードバックしているはずなのに・・・眼の前の人は、


「違う」「違う」と首を横にふる・・・。


何が違うのか、さっぱりわからず・・・混乱し、呆然とした。。。


そんなわたしを見て、彼女は最後に一言、言った。


「わたしのことを、ただ、見ていてほしかった・・・」と。


愕然とした・・・。


言葉ばかりを追いかけ、自分が相手のことを正確に聴いていることを証明せんばかりに、言葉のフィードバックに集中していたわたし。。。


 そして、佐藤初女さんの『いのちの森の台所』に、おむすびで自殺を思いどどまった青年の話しがある。


「初女さんに話しを聴いてもらい、おむすびを食べ、その味に感激したんだろうなぁ・・・」なんて、思い描く。。。


もちろん、それが土台にあってのことだろうが、実際は・・・

あとになって、その青年がみなさんの前で自分の体験を話されたのを聞くと、

「お弁当を開いたら、おむすびがタオルにくるまれていたからだと・・・」。


おむすびを持ち歩くとき、ラップやアルミホイルで包むと海苔もごはんもふやけて味が変わるので、初女さんはタオルで包むという。起毛した糸が熱を吸収してくれるので、おむすびの味が変わらないから。


青年はそれに感じたって。


−こんなに自分のことを心配してくれている人がいるのに、なんてばかなことを考えていたんだろう−と胸に突き刺さるような思いがした、と。


そこでようやく転機にすることができたのだと話してくれたそうな。


この青年は、「タオルで包まれたおむすび」に、生きるスイッチが発動した。


世の中で起こっていることは、案外、こんなことが多いのかもしれない。


提供する側が意図し、ねらいを伝え、情熱をもって力説したとしても、一人ひとりのスイッチが発動するのは、意図したところとは違うところだった、というのは結構あること。


そんな食い違いから、あれ?何で?という噛み合わない場や人間関係に陥ってしまうことも、多いのかもしれない。


そして、一人ひとりがどんな時に、自分の源・素のエネルギーのスイッチが発動するかを、まず、自分がカラダ感覚でわかること。


それは、外の世界でいやなこと、辛いことがあったとしても、どうすれば、そこにつながれるかの選択肢を持っていれば、人や環境のせいにして不平不満ばかり言うより、自分で内的な状態を、望むものに近づけることができるのではないか?


これは、病や障がい、過去のトラウマ等と共に生きる人であっても、生活・人生の質を、よりよいものにしてゆく根源的なことにつながってゆくのではないか?


そんなことを、昨日の看護学校2泊3日の人間関係論の体験合宿プログラム検討会で共有し、今までとは、かなり違った楽しく面白い内容・方法、そして、その場に委ねてみることも増えてゆく模様。


たったひとつ・・・全人類に贈ることができるものがあるとしたら、


「外の世界がどうあっても、自分の内世界・内側を平和にできること」だと、応える。



2015年の下半期をスタートする今日・・・


初めて来たのに・・・「ただいま〜」と言う雰囲氣の場。


初めて来る人にも・・・「お帰りなさ〜い」という‘みんなの家’。。。


今朝の呼吸*瞑想後、そんなイメージが降りてきた。


訪れる人たちが、それぞれの心地よい内的状態をお土産に、


帰ってゆく後ろ姿を見送るのが、わたしの何よりの喜びdえあり、ときめきの瞬間でもある。


*写真は、ベランダのミニトマトと、三位一体の大玉トマトの今日。育つプロセスを見ていると、同じペースで成長するのではない自然の姿に、日々、いろんなことを教えられている。感謝(*^.^*)

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