良くしようとするのは やめたほうがよい 〜出版から22年、村田由夫が語る<人間の居場所>の現在
約4年程前にFBに投稿したもの・・・改めていろいろ感じるところがあり、再掲します。
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良くしようとするのは やめたほうがよい
〜出版から22年、村田由夫が語る<人間の居場所>の現在
1/24(金)の夜、村田由夫さんの語りを聴く機会に恵まれた。
その存在からにじみ出る空気感は、ほんのり温かく、周りの空気との境目が曖昧な感じ。誰に対しても、ご自身に対しても、立ち居振る舞いが変わらないというか、自然で謙虚。
語る言葉も、どこか曖昧さを残している。
そのくるみこまれるような曖昧さ・余白は、何だかよくわからないのだが、自然に受け取ってしまう。そんな感覚。
アルコール依存症という、生きるためには飲まざるを得ず、自分の健康、生活、人間関係等のコントロールを失ってゆく進行性の病気と共に生きる人たち。
村田さんご自身、寿町でその回復のための自助グループを立ち上げ、長く関わってこられた。その在り方から、感じるものがあった。
当事者のミーティングの中で語る内容は、一貫して「自分の場合はこうだ」ということ。聞いている人たちが、それをとるかとらないかは、自分次第。
回復の途上で「先生になるなよ」と言われるのは、後から来た人に「教える」と、相手が期待したようにならずにイライラし、自分もまた飲んでしまうからだと言う。
他人であれ、自分であれ、「良くしよう」ということの問題は、「今の状態」を認めないということ。この隠れた否定エネルギーが持つ落とし穴は、想像以上に大きいのかもしれない・・・。
無力を認め、受け容れた時から、回復が始まる。世話になった人などのためではなく、ただただ「自分のためにやめる」「自分のために生き出す」と、回復が始まると言う。
「自分には力がある」とがんばる。「誰かのためにやる」とがんばる。それは、ことごとくうまくいかない・・・。
これは、何もアルコールや◯◯依存症と呼ばれる症状と共に生きる人だけではなく、村田さんご自身も、こうやってがんばった末に、うまくゆかず、疲弊していったと言う。
支援する立場に置かれた者は、“いい人” “助けたがり” “感謝されたがり” “期待に添うことを美化したがり”・・・等々の依存症かもしれない。自戒を込めて。
一方、支援する立場の人に対して、「あの人は、相手のためではなく、自分のためにやっているのではないか?」という批判を聞くことも多々ある。
しかし、誤解を恐れずに言えば、支援する立場の人も「相手のためではなく、自分のためにやっている」ことこそ、大事なんじゃないか?
「自分のために生きている」実感。それを大切にすれば、いいんじゃないか?
相手を「良い」という枠の中に入れることではなく、相手がどうであれ、見守り、関わるプロセスの中で、自分の無力さを自然なものとして受け容れ、たとえ何かのきっかけや作用が働いて、本人が望む方向にいったとしても、「たまたま・・・よかったね」と。
「誰もが、自分のために生きる」。これさえ、できれば・・・。
もうひとつ、今の時代について村田さんが語った言葉の余韻が深い。
管理は、一度始めると、ゆるめることは滅多になく、エスカレートする。
活用されているのは、数字の強烈さ。自分たちを縛るものが無機的になっている。
外部からの脅威を守る・・・というが、誰が発案し、誰が守るのか?
誰がそうさせているのか? それが見えない。
一人ひとりの心の中に、自分を管理・監視する眼(芽)が育ってくる。
そして、自己管理していることに、自分も氣がつかない。
もっと、好みやわがままを大事にしていいんじゃない?
会の後の懇親会の席で、村田さんはコーラを注文しながら、そっと言った。
「カラダに悪いものが、好きなんですよ。保育園の園長っていう立場もあるのにね。コーラと羊羹、ピーナッツなんて大好き」と、いたずらっぽく笑った。
「人間の居場所」には・・・雑談があり、カラダに悪いものもあり、混沌あり。
前より良くしようなんて考えるよりも、今・ここにいる。
今・眼の前にいる人や場を感じる。
そんなゆるい感じかな・・・。感謝(*^.^*)
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